絵、音楽

逆に星が瞬かないこんな夜だから自分を偽れない僕らのためにこんな雑記があってもいい

 

 

五条新菜という幻想と、無産オタクというヤバい言葉

五条新菜という完全に空想上の存在がいて、いま数々のオタクたちを惑わせているのは喜多川海夢ではなくどちらかと言うと彼なんじゃないかと思う。

「無産オタク」という危険すぎる言葉が生まれたのはたぶんかなり最近のことだけど概念自体は昔からあって(もっとも、こういった概念が言葉として固定されてしまうのがやはりすごく危険なのだが)、突き詰めれば何も生み出さずに日々暗い部屋の隅でアニメとゲームを消費していくだけのうだつのあがらないオタクを救おうとして/全肯定しようとして生まれたのが「オタクに優しいギャル」ではなかったか。

いやもちろん着せ恋面白いんですよ、今期の中でもかなり好き。好きだけど、五条新菜はまずオタクではないし(服飾に無尽蔵の熱意を注げるという意味ではオタクだけど一般に「オタク」という言葉が指すようなオタクではない)、友達はいなくても生み出せるものがあるからうだつのあがらない日々を送っているわけでもない。着せ恋って「2022年初っ端からオタクに優しいギャルアニメきたぞ!!!」みたいな感じで人気に火が点いた印象があるんだけど、みんなぼちぼち気付き始めている、これはその手の作品ではないということに。。。そして戸惑っている

どうでもいいけど「着せ」を変換しようとして予測変換の一番上に出てくるのが「黄瀬」なあたり作画オタクすぎてきしょいね。マジでどうでもいいんですけど。

 

さて、ここで注意を払いたいのが、大前提として無産オタクなる在り方に間違っている部分なんて無いということ。創作をやることを長い間避けてきた人間として/或いは気付けば長いこと創作をやっている人間として声を大にして言いたいのだが、創作やって何かを生み出していれば偉くて豊かかというとそんなことはマジで絶対に全くない。ついでに言うとオタクならせめてコンテンツへの感想や感情を言語化すべきみたいな風潮も消えるべき。

仮にこういう空気にあてられて無産オタクからの脱却を図ったとして、その先に待っているのは言語化不能/言語化不必要だった「好き」という感覚をひたすら言葉や作品に固定していく作業。ひとつ固定するたびに大事なものがぽろぽろと失われていき、気付けば日々弾力を失っていく心が・・・・・・・・・・・・・・・

要するに創作なんて「気付けばなんか作ってしまっている」ぐらいに生まれながらにして野性的な狂った人間に任せておけばいいんです。本当に狂った人間ならむしろ大事なものを掬い上げながら無意識的に世界の形を変容させていけるけど、理性を強く保てる人間が大きなリスクを冒してまでやることじゃない。感覚を固定化してしまうのは本当に本当に危険なんです。むしろ理性があって偉い。意識下で管理できて偉い。俺にはできない。

だから本来的には救う必要すら無いはず、というかそもそもマイナスの位置にいないのだから救うも救わないも無い、と思うのだが、まあ他人との色んな差が見えやすい世の中だから勝手にどんどん沈んでいくというのはあるんだろうな。。。かくしてオタクに優しいギャルは生まれる。

 

で、少なくとも今のところ喜多川海夢も喜多川海夢でそういうオタクに優しいギャル概念にぴったり当てはまる存在ではない。紛うことなきギャルではあるけど、海夢自身が重度のオタクなだけであり博愛的な描写は無い。むしろ重度のオタクであるが故に、新菜がうじうじと情けないことを言っていると割とキツめに咎めたりもする。

着せ恋の良さは、そういう理性を貫通する本気さにあるのだと思う。人間関係とか世渡りをうまくやっていくみたいな普通の幸せを度外視して自分のやりたいことにひたすら一直線でたびたび野性的な狂気すら滲ませるふたり。こんな風に生きれる人間なんて滅多にいなくて、当たり前なんだけど喜多川海夢が幻想なら五条新菜もやはり全然幻想なのだ。

それはもう、例えば「斑目晴信って幻想だよなー」みたいなレベルじゃなく。

 

 

明日ちゃんのセーラー服は本質的にアイドルアニメなのだと思う

着せ恋と同時にCloverWorksが今期用意したもうひとつの大砲、明日ちゃん。博の絵に河野恵美のキャラデがばっちりはまっており、作画はもちろん緻密な美術と撮影も相まって異常なクオリティのリッチな画面を維持し続けている、だけでなくハーモニー処理も毎話効果的に用いて演出的ケレンミを繰り出してくる。CLANNADのスタッフコメンタリーで石原立也が触れているように2008年時点でハーモニー処理が印象的なアニメってもうほとんど無くて、CLANNADのギャグ演出なんかもそうで出崎統による発明当初によく使われた劇画タッチくらいでしか出番が無いと思ってたんだけど、明日ちゃんでは青春の1ページを切り取るエモ演出としてばっちり機能している。これに原作再現も兼ねているのだから見事としか言い様がない。

ただ、「何を表現したいアニメなの?」「百合?」「雰囲気アニメ?」「制作陣のフェチ?」といった声が多く見受けられる。

これはまあ、実際そうで、俺も完全には把握できていない。百合アニメでもあるし、雰囲気アニメでもあるし、フェチアニメでもあるのは確かなのだが、コアが何なのかというのは少なくとも1話を見た時点ではほとんど全く分からなかった。河野恵美の絵やっぱ神だわ、こんなガッツリ味わえるの『Shelter』以来じゃない?とか久野美咲の「かお」の発音良すぎ。。。とかなんか青春がめっちゃキラキラしてるとか、ぐらい。

わかり始めたのは小路のクラスメイトにスポットライトが当たりだす2話から。木崎江利花や兎原透子を始めとする個性的で眩しいキャラクターたちがどんどん出てきて、ああ、これはアイドル型コンテンツの日常シーンの要領で少女たちの青春を見せているんだと確信した。OPテーマの作詞作曲編曲を手掛けた杉山勝彦乃木坂46などのアイドルに多数の楽曲を提供しており、思えば過去に同じくCloverWorks(とTRIGGER)の『ダリフラ』第7話(日常回)特殊EDでシリアスロボット物な本筋からは大きく外れたアイドル的なアプローチで楽曲提供をした(余談だがこのときの河野恵美の原画はベストワークのひとつだと思っている)。外堀の御膳立ては音楽面からも整っていたという訳である。

こうなると割と見やすい。たぶん1クール終えたときのストーリー的な終着点は無くて、というか無くてもよくて、ただただあの青春に満ち溢れた煌めく日常を見ていたい。あのルックス、あのカリスマ性を持っている少女たちだから、きっと道は違えど将来はそれぞれ輝かしい舞台に立つ。それまでのモラトリアムを、成長を、ただ見守っていればいい。

そういう作品なのだと思う。

 

 

あるあるAlchemy

Vtuberあるある

Vtuberあるある言えたら 全て叶う

 

いいさここらでちょっと あるある言っていこ

そういう思考停止ばかり得意になった

 

歩いてきた道振り返ると Vtuberばっかりでもううんざりだよ

Vtuberのあるあるを言うよ セミの物真似がうまがちだよ