ウマ娘人気とオタク文化の聖性に関する一考察
去る2021年3月、アニメ文化は近年稀に見る盛り上がりを見せた。
公園へ出向けば、拾った枝をガイウスの槍に見立てそれぞれの「ネオン・ジェネシス」をぶつけ合ってはしゃぐ子供と大人がいた。
ラーメン屋で腹を満たしていると、カタカナだらけの泥臭い育成論を展開する大学生たちと、競馬新聞を広げながらそれに聞き耳を立てる爺さんがいた。
無論、オタク文化の流行の遷り変りは非常に激しい、のは理解しているけれども、それにしてもアニメがトレンド1位になっている状況は本当に、本当に久しぶりに見た。それくらいにアニメ産業は斜陽だ。
わざわざ「去る」と書いたのにはもちろん意味がある。3月の盛り上がりは、3月当時確実に持続しないと考えていたし、5月現在、やはり持続していない。
さて、何故か。
2期が終わった頃、友達の家で史実を叩きこまれながらウマ娘のアニメを全部観た。
最初に頭に浮かんできたのは、良いアニメだったな~、1期のサイレンススズカifからの田中秀和特殊EDはマジでアツかったな~、2期のツインターボ回や最終話のテイオーは感動したな~、やっぱメジロマックイーンが一番好きだな~、ゴルシや2期のスペちゃんに代表されるギャグ要素は如何にも及川啓のセンスに溢れてて笑ったな~、みたいな。
で、次に思ったのが、みんなが言うほど"最高のアニメ"ではなくない??ってこと。
いや、もちろん良いアニメではあった、よく1期と2期で比較されるけどなんなら俺は通しでずっと良いアニメだと思った、でも過大評価じゃない??同じ及川啓監督作品だけで比べても、ギャグ路線なら『ヒナまつり』、エモ路線なら『俺ガイル』シリーズの方が断然好きだ。
世間と俺がズレているのはいつものことなので、とりあえずすぐに原因を考えてみる。すると思いの外単純だった。(もっとも、これは半分間違っていると後に気付く)
ウマ娘のアニメの視聴者は、恐らく多くがゲームアプリから入ってきている。確かにアプリのクオリティには目を見張るものがあったし、稼働開始の度重なる延期で話題も集めていたから母数も多い。アニメなんか5~6年まともに見てなかったけど激推しのウマ娘のためなら、という行動原理も全く当然だ。そして、アニメを5~6年まともに見てなかったオタクが重い腰を上げた結果良作だったなら、そりゃあ沸きもする。
アニメをずっと見続けている側からしてみれば、近年の数々の傑作に比べると流石に1枚か2枚は劣る印象を抱いてしまう。
そういうことだと思った。
ここまでが初日。
この考えで概ね納得しきっていたもののなんとなくモヤモヤしていた俺は、いつも通りネットの海を彷徨いながらもウマ娘関連のファンアートの描かれ方やバズり方に少し注意を向けるようにしていた。
そこで辿り着いたのが以下の記事だ。書いたのは俺の好きなこかむもという漫画家で、現在まんがタイムきららMAXで『ぬるめた』を連載中。気鋭のオルタナティブな若手作家でありながら単行本1巻の表紙デザインは里見英樹が担当した。凄すぎる。
まあそれは置いといて、この記事でこかむもは要するに「オタク文化が失くしていったものがウマ娘にはある、だからハマった」ということを述べる。
そして、アイドルマスターシリーズを例示する。これがマジで大きかった。
ストレイライトとノクチルに顕著だが、まあシャニマス全体と、ゼルダBotW、それからSSSS.GRIDMANとか、響け!ユーフォニアムとか、デッドデッドデーモンズデデデデデストラクションとか、俺ガイルシリーズだってそうだ、最近の好きなアニメ漫画ゲームはどれもかなり"リアルな空気感の演出"を主眼に置いている。。。というのは意識しすぎで他にもリアルに寄っていない好きな作品はいくらでもある、と思いつつも、やはり明らかに割合として多い。
前提として俺はリアルな空気感の演出が好きだ、それについて全く否定するつもりは無いし、俺のそういう趣味がそういう作品ばかり引き寄せている部分もあるとしても、どうやら全世界的に増えていたらしい。
ゼロ年代の多くの名作が持つ聖性とか偶像性みたいなものを、オタク文化は失った。
こかむもが述べるように、初代アイマスと今のアイマスでは苦難の乗り越え方がまるで異なる。前者はなんと言うか、超自然的なのだ。文字通り次元が違うというか、俺たちの暮らす「3次元」と「2次元」の世界の圧倒的な在り方の違いを感じる。同じ世界で起こっている出来事ではない、と明確に感じる。
『らき☆すた』、『ひだまりスケッチ』、『あずまんが大王』......これも意識しだしたらキリが無いが、やはり当時の名作で俺も好きな作品の多くは、超自然的で、記号的な良さに溢れている。聖性を持ち、偶像性を持っている。
もっとも、これらが失われたのはいたって正統な進化と言えよう。新しいコンテンツを生み出すためには、既存のコンテンツの同ベクトルのスカラを上回るか、それができなかったらベクトルを真逆に向けるのが妥当だ。たぶん前者は難しかったんだと思う。だから世界は後者を選んだ。その進化の結果として、大事な聖性を失った。
ウマ娘には、聖性がある。偶像性がある。超自然性があり、記号性がある。
どのキャラにも動物的な愛らしさがあり、純真無垢であり、複雑な思考回路は持たない。ここで、ウマ娘のアニメを一気見した(させられた)ときの印象に「25話ぶっ通しで見たのにあんま疲れなかったな」というのがあったことを思い出す。
つまり、ウマ娘人気の本当の構造はこうだ。
ウマ娘のアニメの視聴者は、恐らく多くがゲームアプリから入ってきている。確かにアプリのクオリティには目を見張るものがあったし、稼働開始の度重なる延期で話題も集めていたから母数も多い。アニメなんか5~6年まともに見てなかったけど激推しのウマ娘のためなら、という行動原理も全く当然だ。ここまではたぶん完全に正しい。
そして、""リアルな空気感の演出"に傾倒していくアニメ表現に疲れたからアニメを見なくなっていったオタク"が重い腰を上げた結果、良作で、しかも"リアルな空気感の演出"より聖性、偶像性、超自然性、記号性を重んじたコンテンツだったなら、そりゃあ「こういうのでいいんだよ!」と沸きもする。
確かに、聖性、偶像性、超自然性、記号性を重んじたアニメとしては近年で間違いなく一番の名作なのだった。リアル寄りの表現が好きとはいえらきすたもひたまりスケッチもあずまんが大王も大好きな訳で、これに気付いたとき、ああ、まだこの方向性でもヒットできるんだ、とすごく救われた気持ちになった。
そういうことなのだと思う。
だからまあ、やっぱり3月の熱気は当分戻ってこないのだろう。あの時ウマ娘を見て毎週泣いていた人のほとんどは今期のアニメなんか見ちゃいない。何故なら聖性が失われた、疲れやすい文化だから。
でも良いのだ。一瞬だけの輝きでもとても価値のあるものだったことが分かったから。アプリの人気はまだまだとどまるところを知らない。きっとアニメ3期もやる。その頃にはもしかしたら、聖性は完全に復権しているかも知れない。
その時までオタクの心を完全に失わっちゃわないように、オタクは今日もオタクであろうともがく。
余談だが、昨今、「解像度」という言葉がオタク的文章表現でよく使われる。一般に「解像度が高い」コンテンツは持て囃される。これはもしかしたらすごく重要なのかも知れなくて、2次元世界ですら解像度で測られる時代になったということだ。
フィルムカメラが廃れてデジタルカメラの性能勝負が加速したのと同じ。自分たちの眼に映る世界により近いものが求められるようになった。俺はそういう表現も好きだが、解像度が高いものばかりが持て囃されるのだとしたら納得はいかない。眼だけでなく、脳に映る世界がなきゃ面白くない。し、解像度にはどこかで認識不可能な限界が訪れる。
そうなったとき、ウマ娘を契機にオタク文化は一周するのかも知れない。