シンエヴァ
3/8 1回目 (1人)
3/12 2回目 (2人)
3/27 3回目(1人)
3/17 追記
- "Excuez-moi, Eiffel!"
- 第3村に着いたとき、夢でも見ているのかと思った。
- 14年という歳月の重さを、僕らは再び目の当たりにする。
- それでもやっぱり、ニアサーも悪い事ばかりじゃない。
- 「好きだった」を聞き、ああ本当に終わるんだなと思った。
- ネオン・ジェネシス
- 余談・金田光
"Excuez-moi, Eiffel!"
メカを作画で動かす時代は悲しいけどとうに終わったし、そもそも究極的には心や魂の在り方の物語であるエヴァの最終章に、派手なアクションは不要だと思っていた。
まあでも、エヴァなんだからコクピット内描写は繰り出してくれなきゃね。磯がAirに遺したものを、後続のアニメーターは少しずつでいいから拾っていかなくちゃね。という想いは、井関の手によって見事に昇華された。というか、「初めて見る作画だ」とすら思った。小堀とアサゲンいたので、これで大島塔也も居ればカラーの若手スター勢揃いだったんだけどな......。
4444Cを倒す際にマリが放った"Excuez-moi, Eiffel!"という台詞は激烈に印象的。アスカの口癖が感染ったのだと考えるとかなり感慨深いものがある(Qの「ごめん、2号機!」といった台詞に代表されるように、アスカはいつもエヴァに乗って戦うときの道具に敬意を払っている)。マリはQ以降、戦闘においても日常生活においても、アスカのことを「姫」と呼んでサポートし続けてきた。冬月やユイと共に初期からエヴァに携わってきた研究者として、きっと深い愛情や憐憫があるのだと思う。
第3村に着いたとき、夢でも見ているのかと思った。
トウジが生きている。ケンスケも生きている。それどころか、あのトウジが手探りながらも町医者をやっていて、ヒカリと結ばれていて、子供までいる。ああ、まったくケンスケの言う通りで、「ニアサーも悪い事ばかりじゃない」。
QでシンジがネルフからトウジのYシャツを支給されるシーンに、僕は見事に引っ掛かっていた。「訳が分からなくなっているシンジに友達の存在を思い起こさせ、カヲルとの深い接触を導くためのトリガーである」と言われればそれまでなのだが、ミスリードも演出意図のうちに含まれていたように思う。
それがこんなにもみんな、ささやかながらも幸せそうに暮らしを営んでいるなんて。ニアサーによる大災害の渦中、朴念仁ながらも正義感に溢れるトウジに命を救われたヒカリは思わず予てからの想いを打ち明ける、そんな場面が、描かれてないのに秒で脳内再生される。最早それだけで十分な気すらして、初日のときの僕は完全に泣いていた。
14年という歳月の重さを、僕らは再び目の当たりにする。
Qにおけるミドリとサクラの登場は、言うまでもなく、エヴァの呪縛にかかっている僕らに14年という歳月の途轍もない重さを突き付けた。Qからシンへの時間経過はまあ長く見積もっても精々1週間くらいだろうから、既に心構えはできていたつもりだった。だから、トウジたちが生きていたことに驚きこそすれ、成長具合に関しては「まあ、そうだよなあ。サクラがあんなに成長してるくらいだしなあ。うんうん。」くらいに思っていた。ケンスケの家に着くまでは。
アスカが、ケンスケをあだ名で呼んでいる。エヴァパイロットでもない他人を、ましてや「えこ贔屓」とか「七光り」みたいな悪口の代替の意味も含まず、純粋に親しみを込めて「ケンケン」と呼んでいる。
そしてアスカの裸を見ても全く動じないケンスケ。TV版最終話ではシンジアスカ / トウジヒカリの夫婦喧嘩紛いを傍目に、「いやー、平和だねえ」なんて独りぼっちで呟いていたあの愛すべきオタクが、どうやらアスカと暮らし始めて随分経つらしい。
恥も外聞もなく正直に言うと、眩暈がした。カプ厨的な意味合いも2割ほどは含まれる。ただ、それ以上に、やはり14年という歳月はあまりにも重すぎる。14年もあれば人間関係なんて全然変わるという当たり前すぎる事実を目の当たりにする。当たり前だからこそ、当たり前に効く。まさかこんなことが起きているなんて、流石はリリンの王、庵野秀明だ。僕はいかにも心構えが甘すぎた。
それでもやっぱり、ニアサーも悪い事ばかりじゃない。
第3村の中心部には戦時中のような光景が広がるが、生き残った人々や動物が懸命に生きていた。そんな様子に、仮称アヤナミレイ(初期ロット)がいちいち興味を示す。アヤナミシリーズの魂は全て根本的なところで繋がっている、というのは考察を読まずともTVシリーズ、旧劇、序破Qとひと通り追っていれば誰にでも分かることで、つまるところは物凄くざっくり言ってしまうと破のポカ波の再登場である。「○○って、何?」と純粋な興味や疑問を示すアヤナミは実に無邪気で、村の人々は様々なことを教え、日々交友を深めていく。止め絵が連続するシーンに象徴されるように、牧歌的な日常を謳歌するアヤナミを見ていると、本当に、本当にニアサーも悪い事ばかりじゃないと思えた。この感覚はほとんどそのままシンジにも段々芽生えていったことだろう。
余談だが、お風呂のシーンは平松が原画を描いていると思う。これは常々言っていることだが、現代においてアニメーターの絵の個性は男性キャラかモブキャラに出やすい。何故なら普段書き慣れていないからだ。『さよならの朝に約束の花を飾ろう』の平松パートほど分かりやすくはないにしても、細顔の方のおばちゃんはかなり平松。2回目を一緒に観に行った友達が「細顔の方のおばちゃん、ちょっと(フリクリの)ハル子っぽいよな」と言っていたのも印象的(フリクリは貞本の絵というより平松の絵なので)。
ともかく、Qでとことん狭められた空が(それがQの良さなのだが)とても気持ちよく拡がっていく感じがした。世界は今日も簡単そうに回る、そのスピードに涙も乾く。立ち直ってから初めてまともにアスカの問いかけに応答したシンジにはまだはっきり「うん」とは言いたくないような幼稚性が伺えた(ここの緒方恵美の演技本当に凄い)が、初めての釣果が散々で思わず悔しさや恥ずかしさが表情に出たシンジは紛れもなくエヴァの主人公なのだった。
「好きだった」を聞き、ああ本当に終わるんだなと思った。
サクラのあまりにも優しくて暖かい叫びとともに、舞台はヴンダーへ移る。様々なクルーの現況が描かれるが、やはり一番鮮烈だったのはアスカとマリがシンジの部屋(独房みたいなものだが)に立ち寄るシーンだった。他の全てをさしおいて一番心に刺さったのは間違いなくここだ。
「あんたのこと、好きだったんだと思う。」とアスカが言ったのを初日に初めて聞いたとき、最早どれくらい衝撃だったのか概算もできない。ただ、同時に、ああ、これで本当にエヴァが終わってしまうんだ、という確信めいた思いが湧いてきたことだけは確かに覚えている。アスカは作中最も不遇なキャラクターで、TVシリーズからずっと辛い思いをし続けてきた。アスカが何か重要そうなことをする度に、ファンは「ああ、また全く予想できないことが起きてアスカが辛い思いをしてしまうんだろうな......」という覚悟を抱かなければならなかった。なんならこの台詞の後、アスカは最も辛い目に遭う。セカンドインパクト爆心地を強襲、13号機と会敵し、左目に封印していた吉成曜を解き放って自らを使徒化せざるを得なくなった結果、終ぞシキナミシリーズのオリジナルに魂を取り込まれる。
使徒化を選択するアスカの決意はとても速く固く、だからこそ、「最後だから」シンジに伝えた。同時に、だからこそ、「好き」という意思を伝えることはずっとできなかったはずだった。何があってもアスカだけは常に目の前の敵と戦わなければならず、自分の気持ちに向き合える時間なんてなかったはずだった。だのにアスカは言った。はっきりと言った。あれだけの運命を抱えていながら、意思を強く持って自分とも向き合った。スクリーンには確実に血の通った一人の人間が映し出されていた。
本当に、本当に、本当に、本当に本物の創作だ、と思って、一番泣いた。
ネオン・ジェネシス
シンジの成長は、第3村でのアヤナミの死を以て既に成っていた。他人の死を慈しみ、感謝する心を持つには、TVシリーズから旧劇を経て序破Q、そしてシンの第3村までの十分な時間があっても、とても普通の人間には足りない。己が運命を包み込みきれない。だが、碇シンジは主人公である。得てして不完全性と主人公性はイコールであり、主人公は大いに悩み、そして主人公にはその不完全な部分を分かちあってくれる仲間からの愛がある。
銃口を同じ方向へ向けるミドリとサクラの感情の対比はまさに愛の象徴だ。ミドリには一貫してシンジへの愛などなく、ヴィレクルーでいるのはニアサーで家族を失った怨恨に因るところが大きい。なので或いは愛を知らないのかも知れない(これを考えると、ミサトとの対比とも取れる。研究に明け暮れた父をセカンドで失ったミサトは父からの愛をほとんど知らず、リツコをして「あなたが使徒と戦うのは復讐じゃなく私怨でしょ」と言わしめたほどであるが、実際には加持やリツコら様々な友人から愛を受けてきた)。
話を戻すと、そんなミドリとは対照的にサクラは明確な愛と優しさのもとにシンジを撃とうとする(ここの一連の沢城みゆきの演技が本当に凄い)。親を失った悲しみは他のヴィレクルーと同様なのに、兄の友達であるシンジを心から思いやる在り方は無償の愛と言うほかない。母性的だ。サクラの発する意見はもっともで、そこへ更に歳相応の感情の発露が重なる。ずっと不穏な空気を纏っていたミドリは、そんなサクラの様子を見て遂に溜飲を下げる、というか、愛を知る。
そしてミサトと対面し、「いってきます」と言って微笑むシンジの顔つきは、紛れも無く主人公のそれなのだった。
そして、ゴルゴダオブジェクトに突入して以降ひたすら繰り広げられるメタ演出の中心を走るのは、あまりにも王道な漫画・アニメの主題であった。もっとも、それすらもメタ演出の一部なのかも知れない。
「いってらっしゃい」「いってきます」。
「絶対に待ってなよ」。
初号機と13号機の対面。こうして改めて見るとカラーはほぼ同じ。
気の触れるほどの夕焼けに、緑の蛍光色がよく映えて滲む。
公開前散々叩かれていたしょぼい3DCGの戦闘シーンには、さながらトゥルーマン・ショーのような明確な演出意図があった。思わず感嘆した。
マイナス宇宙内の人間が本来知覚し得ない情報をLCLが想い出の中から再現するという理屈で、これまでのシリーズで登場した様々な場所で戦闘に明け暮れる初号機と13号機の動きはほぼシンクロする。
暴力が解決方法になり得ないことを互いに理解するシンジとゲンドウ。
電車の中での子供シンジと中学生シンジの立場の逆転。
ゲンドウの成長、幼少期からユイ喪失に至るまでの丁寧な回想、ユイの在り処の認知、そしてシンジによる解放。
アスカの成長、そして、そして、「好きだって言ってくれて、ありがとう」というシンジの回答。旧劇ラストシーンの浜辺にて。赤面を隠しきれないアスカと、シンジによる解放。泣いた。泣いたよ。
カヲルの成長、正体の一片を覗かせる。加持と共に自然を愛することを選択する。シンジによる解放。
レイの成長、そして、「世界の新たな創造、ネオン・ジェネシス」という"新世紀エヴァンゲリオン(NEON GENESIS EVANGELION)まで遡っての"タイトル回収。泣いたとも。こんなことあるか?
土壇場で破以前の髪型に戻ったミサトが命を賭して創り上げた第3の槍を手にしたシンジは、慈愛と感謝の念を込めて握る。「ネオン・ジェネシス」と唱えて。
シンジの魂と引き換えに行うはずだったエヴァの無い世界の創造を、初号機に眠っていたユイが代わって引き受ける。クライマックスでユーミンの『VOYAGER〜日付のない墓標』が流れる様は、破のラストを彷彿とさせる正しく王道泣き展開だ。でも、それでいい。
「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」。
現実世界に戻り、少なくともアスカを乗せたエントリープラグは第3村に着陸したらしいことが描かれる。誰もいない砂浜で佇むシンジと波はだんだん原撮になっていき、最後には原画1枚に。
原画用紙に書かれた「よろしくおねがいします!」の文字は、アニメを商業でやっていくことの原体験と言えると思う。原画集とかを読んでていつも思うが、僕はこの文化が大好きだ。
「よっしゃー!」と大きく叫んで約束通りシンジを迎えに来るマリ。これは推測の域を出ないが、マリは冬月やユイと共にエヴァ関連の研究に最初期から携わっており、何かしらの実験がきっかけでエヴァの呪縛を受けた。同時に、アヤナミシリーズやシキナミシリーズの存在も知っていたため、最後に残るパイロットは自分とシンジだけであることを分かっていた。だから、絶対に添い遂げると決めていたのだと思う。
これは、エヴァなりのギガドリルブレイクだ。グリッドフィクサービームだ。
ガロデリオンでもいい。シャイニーアルクでもいい。Last Dinosaurかも知れない。
要するに、たとえ静かな終わり方であっても、作り手の、受け取り手の「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!」は必ず共鳴する。血となり、魂となる。
創り物であっても作り物ではない。
人間のようにきちんと魂や血が通っている作品、キャラクター、物語。
その在り方全てが込められていたね。
余談・金田光
正直に言うと俺も金田きてる...って思って、これからアツくなるシリアスシーンなのに思わず口角が上がってしまった。