絵、音楽

私小説・1

 

魔が差した。

いかにも月並みだが、嚆矢というのは往々にしてこういうものなのではなかろうか。

まだ五月も上旬だというのに、容赦無く照り付ける陽射しに目が眩む。うだつの上がらない僕を、茹だるような熱が包み込む。

また夏が来る。夏の空気は、それだけで僕たちの正常な思考回路をかき乱す。

そんな中で不意に魔が差したとして、誰に僕を咎めることが出来よう。

 

プラットフォームに降り立つと、それは酷暑と形容してもいいくらいだった。思わずシャツの袖をまくり、同時に裏地の薄い水色のギンガムチェックがワンポイントとなるように整える。時刻は午後二時五十五分を示している。新横浜駅周辺で昼飯を摂ってから円滑に新幹線に乗り込んだのだから、人事は尽くした。健康との兼ね合いも考えるとこの時間に到着してしまうのはある程度仕方の無いことで、実際に僕はその面では割り切っている。

それよりも、前日まで奥多摩に旅行に行っていたことが大きかったのではないか。ただでさえ山奥で普段より寒いのに、一部地域では雹も観測され話題となったことが記憶に新しい。あれは急な寒暖差を苦手とする僕にはなかなか効いた。

ただ、恐らくそれよりも、何より僕が降り立った地は、日本を代表する盆地だったのだ。

ゴールデンウィーク最後の二日間を利用して、僕は京都に来ていた。

 

待ち合わせまでは多少時間に余裕を持たせていた。待ち合わせ場所までの移動には市バスの利用を勧められていたが、僕はバスという乗り物がどうしても苦手だ。乗り降りのシステムも、行き先の融通の利かなさも、車内の雰囲気も、支払いのシステムも全て窮屈に思えて仕方ない。一度はバスターミナルまで出てみたが、日照りのせいもあっただろうか、やはり少し目が眩んでしまった。踵をかえし、人通りの少ない道を選びながら徒歩で北上していく。

八条通りと竹田街道の合流地点辺りから駅構内を出ると、いっそう熱気が強まる。ポケットからスマホを取り出し、時間を確認するついでに天気情報を参照する。どうやら最高気温は三十度を超えるらしい。

橋を渡りながら、夥しい数のレールを見下ろす。この辺りの景色は横浜と大差が無い。下京区の東端あたりは概ねそのような道が続く。首都圏の都会と似たような空気感で、人影もまばらだ。名物らしい京都ラーメンの店には長蛇の列ができていたが、せいぜいそのくらい。待ち合わせまでにあまり体力を消耗したくなかったし、何より折角の機会なのだから「京都らしさ」の体感には地元民の案内に頼りきってみるつもりで、待ち合わせ場所までの道のりは何の変哲も無いもので全く構わなかった。

でも。

もう一本、もう一本だけ東へ逸れれば右手に鴨川を眺望しながら歩くことができる。鴨川を訪れるのは一体何年ぶりか。ああ、とても待ちきれない。......幸い、時間にはまだ余裕もある。

そういったある種邪な感情が心の水底からとくとくと湧き出て来る感覚が、無かったと言えば嘘になる。事実としては、僕は必死にそれを抑え込みながら目的地まで歩いていたのだった。

それにしても。

「暑いな」

不意に独り言が漏れた。

 

天満町の辺りまで来ると、流石に賑わっていた。圧迫感が身を包み、体感温度は更にも増して上昇する。首元にじっとりと汗が這い、僕は早くもこの格好で京都に来たことを後悔し始めていた。ふとさっきのラーメン屋の行列が脳裏を過る。皆一様に涼し気な装いをしていた。

北上する度に、その賑わいは活発さを増す。四条河原町の交差点は人でごった返していた。僕はある程度体力に自信があるが、ゴールデンウィーク中ずっと予定が入っていたことにより溜まった疲労にこの酷暑と人波が合わされば、あまり長く持つとは言えない。どうしたものか、と思いつつ人波に揉まれていたら、僥倖にも地下鉄の入口が眼前に見えた。身をよじり、なんとかそこまで辿り着く。

更に僥倖なことに、汗ばんだ手でスマホを取り出し、現在地を確認すると、ぴったりそこが目的地なのであった。

 

待ち合わせ場所である阪急河原町駅の東改札の前で、僕は壁に寄りかかっていた。地下道はまるで天国のように涼しく、壁はひんやりとしていて気持ちが良い。もうずっとここにいてもいい、そう思ってくつろいでいたら、薄手の外套に身を包んだ女の子が現れた。

「最初、誰なのか全然わかんなかった」

それもそのはずだ。そもそも会うの自体がだいたい二年ぶりだし、僕は目が疲れてトレードマークである黒縁眼鏡を外していた。

彼女こそが今回の待ち合わせの相手だ。彼女、と言っても勿論飽くまでそれはただの代名詞に過ぎず、恋愛関係にある訳では微塵も無い。大学のサークル繋がりで知り合った他大学の子で、何かの機会があればときどき喋るくらいの、特別仲が良い訳でも悪い訳でもない、そんな関係だった。家族問題や人間関係の問題、そして病気まで抱えて厭世感が過去最大に膨れ上がり、首都圏を離れて京都に移住したいと切実に考えていた僕に対し、藪から棒に連絡を寄越しサポート役を買って出てくれた存在、それがこの子だ。

 

「ていうかなんでスーツなの?そこからして想定外で見つけにくかったんだけど」

そう言って彼女はくすくすと笑った。

無論、僕だって好き好んでこんな格好でこの盆地に来た訳ではなかった。強行軍だったのだ。適当な理由を付けて会話は流したが、ゴールデンウィークの予定があまりにぎゅうぎゅうで、計画を立てている暇もなくがむしゃらに日々を消化していたら着る服が全くなくなっていた、というのが本当の理由だ。

スーツ、と言っても背広は流石に着ず、薄手のワイシャツにビジネスライクなパンツ、という簡素な出で立ち。苦肉の策だったが、まあクールビズ期間中は一応これで暑さを耐えしのげていた訳だし、何より裸で外に出るよりかは遥かにマシだろう。

「でもさ、スーツ姿割と似合ってると思わん?」

ゴールデンウィーク中なのにスーツとはいかにも変だ。ただ、客観的に見て、それを補って余りある、とまでは言わないがある程度似合っている自覚があった。それに、せめてもの足掻きとして、いちおうワイシャツも一番気に入っているものを着てきた。

「こんな奇抜なことしてくる人だとは思ってなかったけど、うん、似合ってる!」

「でしょう」

まあ、心象はまずまずといったところか。強行軍にしてはよくやった方だ。

「このギンガムチェックさ、可愛いね」

分かっていた。十中八九そう言われることは分かっていた。だいいち、袖をまくったときに見えるギンガムチェックが無ければ僕自身としてもこのワイシャツを気に入る理由はあまり無い。これに気付いてもらえないと意味が無い。

ただ、約一年前のあの時の色が、温度が、声が、強くフラッシュバックする。

あの子も、全く同じことを言った。

「・・・よく言われるよ」

精一杯にはにかんでそう答えたつもりだったが、恐らくそれは苦虫を噛み潰したような表情と綯い交ぜになっていただろう。

 

寺町通りから一本東に逸れたアーケード街で、彼女はクレープを、僕はタピオカドリンクを買い、食べ歩きをしながら御池の辺りへ歩く。驚くことに、彼女は昼飯を食べていなかった。ついでにタピオカが苦手らしい。僕は腹が減っていなかったけど、旅に食べ歩きは付き物だ。なんとなくその風情を楽しみたくて、一緒に並んで消去法的に飲み物を買った。

御池通りにぶつかったところで右折すると、念願の鴨川が見えてくる。他愛無い無駄話に花を咲かせていた僕らだったが、橋のたもとに立つと、僕はほとんど衝動的に、今回京都に着いて初めてスマホでカメラを構えていた。

「ほんと好きだねえ、鴨川」

「そりゃあもう。京都人が羨ましい限りだよ」

そして見事なまでの等間隔。思わず僕らは笑い合っていた。

「よし、歩こっか、デルタまで」

「えっ、いいの?」

少し予想外な提案だった。御池から出町柳までは少し距離がある。それに、河原町駅でバスの一日乗車券の購入を促されたから、てっきり徒歩による移動は厭う人なのかな、とも思っていたからだ。真意としては「たった三回乗れば元取れるし、六百円なんてタダみたいなものだし」程度のものだったらしい。僕としては、前述したようにバスという乗り物が苦手だし、自転車ほどではないが徒歩による移動をかなり好む人間なので、もちろん快諾した。

 

他愛無い話に再び花を咲かせながら、食べ歩きをしながら、鴨川の河川敷を北上していく。日が落ち始めて、快適な気候になってきたので僕らの足取りはゆったりとして心地良い。何より、単純に「友達と他愛ない話をしながら大きな川の河川敷を延々のんびりと歩く」みたいなシチュエーションを僕はこよなく愛する。京都まで来て、こんなに贅沢な時間の使い方は無い。

道すがら、彼女が突然こう切り出した。

「鴨川デルタの突端でさ、煙草吸いたくない?」

数秒考えたのち、僕はこう答える。ただしこれは、疑問ではなく単なる最終確認だった。

「え、喫煙者だっけ?」

「違うよ~、でもこういうときさ、誰かと煙草吸いたくならない?」

僕には分かる。イラストや漫画などにおける喫煙描写への憧れ、身近な喫煙者への憧れ、身近な喫煙者同士のコミュニケーションへの憧れ、非日常の中で敢えて「ケ」に挑む姿勢、それを単身で行ってしまった場合の寂寞。おおかたこれらの幾つかに引っ掛かるものがあるのだろう。或いは全部か。

「いいね、吸おう」

「よっしゃ!じゃあそこのコンビニで買ってこ」

かくして僕らは鴨川デルタの突端に陣取る。飛び石のあたりはまだ多くの人々が行き交っていたが、突端は何故かいつでも空いている。日もだいぶ落ち、賀茂大橋の街灯が綺麗に光り始めていた。

彼女は、意気の割には煙草にほとんど慣れていないようだった。僕は、友達にあまりに喫煙者が多いので実はまあ、貰い煙草に限るけど時々吸う。とは言え僕もほとんど慣れていないに等しいが、彼女はそれ以上だった。

「・・・何やってんの?」

「え?火点けようとしてる。風強いのかなあ」

「あのね、煙草に火点けるときは、口に咥えて少し息を吸いながらライター当てるんだよ。そうしないと酸素がまわらないでしょ」

「あーなるほど。あっほんとだ、点いた」

「良かったね」

「はい」

「え?」

間接キスくらいで驚く年齢ではないが・・・。

「ありがと。でも火くらい自分で点けるよ」

「そう?」

他愛無い話をしながらひとしきりそんなことをやって、二人合わせて八本くらいで飽きた。主に憧れに因るものだから、まあこんなものだ。

「はあー。ね、入水しよ、入水」

「はあ?」

「この突端から一歩踏み出してみたかったんだよね~」

そう言って彼女はスカートの裾を上げ、デルタの突端からじゃぶじゃぶと水の中へ進んでいく。よくもまあそう色々と手を出してはしゃげるものだ、と呆気に取られる。ただ、時々はこういう存在による強引な力に引っ張られでもしないと、僕は「ケ」をこよなく愛し過ぎて、能動的に非日常的な行動を取ることは無いというのも事実だ。

「ちょ、待って待って」

そう言って、僕もスーツの裾を適度にまくる。昼間の全身がアイスみたいに溶けるような暑さのせいで、身体は無意識に水を欲していたらしい。底の浅い高野川と賀茂川の合流地点に足を踏み出すと、流れの速度もちょうど良くて、少し驚くくらい心地良かった。

ただし、これを読んだ読者諸賢には十分に注意していただきたい。水底というのは、苔がよく生えているのだ。短く声を上げつつ、危うくもようやく安定した足場に辿り着いた、と思ったら、今度は彼女の方が声を上げた。

「あっ、ちょ、やばい!ちょちょ、そこ足場安定してるなら手貸してっ」

「はい。大丈夫?」

河原町駅で会った時点では外套を羽織っていた彼女は「末端冷え性なんだよね」と言っていたが、その手は少なくとも僕よりは温かかった。

 

足を乾かしている間にすっかり日は落ちていて、デルタにはまばらな人影しかなかった。ゴールデンウィークでもこんなものか、と思い、もし自分が本当に京都で暮らすことになったら下鴨神社やデルタの辺りへは足繁く通うことを想定すると、人が多くないのは有難いことだった。

丸太町の少し北辺りからバスに乗って南下し、祇園の街並みを通り抜けて、河原町で夜ご飯を食べた。河原町通りから一本東に出ると木屋町通り、さらにもう一本東に出ると先斗町である。木屋町には実に様々なバーや呑み屋が並び、傍らに流れる高瀬川がより一層その絢爛さを演出している。先斗町には料亭などが並び、鴨川に面していることでとても風情が良い。どちらも、数々の歴史的建造物を差し置いて非常に京都らしさの詰まった一角だ。河原町でご飯を食べていると、その距離的な近さから憧れも仄かに強くなる。

そんなことを考えていると、ご飯を食べ終わろうとしている彼女が何か呟く。

「そろそろかな・・・。」

「え?」

「急がなきゃ、お会計しよ」

電車やバスの都合でもあるのだろうか?まだ午後十時よりも前だが。とりあえず会計を済ませて、店を出る。美味しかったなあ、という満足感を得ているのも束の間、彼女が走り出す。

「はやくはやく!着いてきて!」

「さっきから何やらそわそわしてたけど、これから一体どこへ連れて行かれるのさ」

「それは着いてみてからのお楽しみでしょ~」

河原町通りから東側の裏道に入る。抜けた先に、のどかに流れる浅い川。高瀬川だ。木屋町通りに出た。なおも彼女の勢いは止まらない。更に東へと邁進し、裏道へずいずい入っていく。ほぼ森見登美彦作品。

「着いたよ」

目的地は、先斗町のバーだった。てっきり料亭ばかり並んでいるものだと思っていたが、バーもあったのか。知識不足を恥じると同時に、バーであったら木屋町では駄目だったのか?という疑問が立ち上がる。尤も、そんな疑問を解消しようと思索を巡らせる暇もなく、有無を言わさず妙にお洒落なバーの奥に通される。百聞は一見に如かず。そう広いとは言えない細長のバーの最奥では、ひっそりとジャズの公演が行われていた。窓からは、隣の料亭と思しき建物から鴨川沿いに張り出している木造の床が見えた。

ひと息ついて、彼女はこう言って笑うのだった。

「ギリギリ間に合ったね・・・。こういうの好きだと思ったから、連れてきたかったんだ」

僕はジャズに詳しい訳では全くないが、音楽への興味で言えば人一倍であることは自他共に認めるものだ。客層はナイスミドルと呼ぶべき人々が多く、偶然ではあるがいちおうはフォーマルな装いをしていた自分に安堵した。しかし、陰気な大学生のような呑み方しかしてこなかった僕としては、ここまでお洒落な空間でのお酒の呑み方を知らない。気が抜けないな、と思いながら、なんとなく見た目と名前が気に入ったので「Yukiguni」というカクテルを注文した。川端康成かと思ったが、どうやら違うらしい。面白いカクテルだった。

それにしても、本当によくもまあこう色々と・・・呆気に取られる。そして、時々はこういう存在による強引な力に引っ張られでもしないと、僕は「ケ」をこよなく愛し過ぎて、能動的に非日常的な行動を取ることは無いというのも事実なのだ!

実際にジャズの演奏は素晴らしく、店内は、密やかな、それでいて万雷の想いが詰まったような拍手に包まれた。

 

それから先斗町のバーを出て、木屋町のバーへ梯子した。お酒を入れた後の木屋町通りと高瀬川は、いっそう幻惑的に見えた。一杯目に、僕は「偽電気ブラン」、彼女は「おともだちパンチ」を注文した。そんな珍妙な名前の酒があるか、と感じた読者諸賢に是非お勧めしたい本がある。愚にもつかない青春小説だ。

前述したが、間接キスぐらいで驚く年齢ではない。

そのまま僕たちは終電まで飲んで、僕は彼女の家に泊まった。

 

帰りは、彼女は入場券を買ってわざわざホームまで送りに来てくれた。

他愛ない話に最後まで花を咲かせ、発車アナウンスが聞こえると、互いにかかげた手のひらをぺたぺたして、僕は新幹線に乗り込んだ。

僕と彼女は、もちろん恋愛関係には全然無い。ただ、別にそういう関係に依存しない青春というものもある。僕たちは今回、場面場面を切り取ると、多くの人が羨むような、犬も食わないような、そんな青春を過ごしてはいなかっただろうか。青春の定義は良く分からないけど、たぶんこれは青春だったんじゃないだろうか。

京都までの片道の新幹線代は約一万二千円。

僕は、一日あたり約一万五千円で青春を買った計算になる。

二十四歳ともなると、青春を手に入れるのにも安くないのだ。

 

 

 

そして僕は今、江戸川を臨むサイクリングロードを自転車でひた走っている。

横浜まであと50km。魔が差したのだ。

少し風が強いが、日差しも照り付けており、暑い。

暑さにやられて、魔が差したとしか言いようがない。暑く、睡眠状態が悪く、小説の続きを読もうにも全く手が付かなかったので、衝動的にうんと遠くまで自転車を走らせてしまったのだ。その過程で、何も考えずに自転車を走らせるのもいいが、ふと暇を感じ、今回の「魔が差した」という一見不穏な嚆矢と「一日あたり一万五千円で青春を買った」といううたい文句を思い付いたため、執筆に至った。

今はその復路だ。

あと五時間はたっぷりかかるだろう。だが、帰ってからの執筆、推敲を考えるとそんなに気は重くない。

 

 

2019/05/13