絵、音楽

0527ツイートまとめ

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ここ一週間ぐらい本当にずっっと悩んで、考えてる、
曲がりなりにも「何者か」ではあった自分を、他者から見ても今の俺を象っている地盤としてパッと思い当たるのはやはり創作であるという事実を、排してしまっていいのか、勿論客観的に見ても排するに足る十分な精神的苦痛を受けたことは確かだけど、

いま地盤を崩して「何も持ってない、ただの趣味人」を目指したら、心は本当に凪ぐだろうか?楽に生きれるだろうか?仮に凪いだとしても覆水は返らない、「もう潮時だろうし」なんて言い分はたぶん勝ち逃げするための言い訳に過ぎない、天恵としか言いようがない環境や才能があるし、本当はまだ創りたい

ただ、他人の為に心身を削り過ぎる嫌いがある上に界隈の多くを占めるお花畑みたいな風土は自他共に認める通り根本的に相容れない、だから依頼の受諾には細心の注意を払う必要があるし、地盤を崩して凪ぐことに期待するのも悪手とは言えない、でもまだ早いかも知れない、後で後悔してもどうにもならない

昨日、会社の友達がこう言ったんだよ。
「お前の周りの人が言うことさ、正直俺すげえ分かるんだよね。嫉妬?っていうとたぶんちょっと違うと思うんだけどさ、要するに『同類だと思ってた友達がいつの間にか俺の手の届かない場所に立ってた』みたいな。知っての通り俺も創作が好きで仕方なくて、

一応漫研で時々絵を描いてて、その気になって能動的に行動を起こせばもっと色々出来たかも知れない、って思う節はあったのに、あれこれ理由をつけて自分に蓋をし続けて、気が付けば好きなクリエイターの活動を追うだけの『何もない人間』になってた訳でさ。後悔ばかりだし、正直お前が羨ましいよ。」

 

そして、俺の創作の大テーマは「創作物が好きで仕方が無いのに色んなものをこじらせてしまった者が、全ての同類へ捧ぐ、泥臭くもまだ青き理性に強く立つ人間賛歌」なんだけど、それを最大限にぶつけた『save your tears, save your dreams』がその友達にぶっ刺さった。俺がどれだけ嬉しかったか。

 

詳しくは石黒正数ネムルバカ』を読んでください(実は前述の友達もネムルバカを読んでいる)

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考えなきゃいけないことが多過ぎて全く寝付けないからスマホをいじっていたらほんの出来心であの一年前のlineを見返してしまって涙がぼろぼろに零れた 僕らはどこまでも不器用だったけど、彼女のそれはいずれ摩耗されて社会のどこかに溶け込む 長い年月を要すると思うけど、それでもいずれは溶け込む  僕だけが不器用なまま、幽霊船みたいに生きづらさの中を彷徨う 今日も眠れないや それでもその青さや青臭さは僕にとってのLCLでありプログナイフでもあるから本当に大切にしたいものなのだけど、どれだけ心の底から『響けよ』と叫んでもきっと本当に大切な人には届かないもので、それが何より悲しい

 

ただ、まあこういうところが快復を妨げているんだと思うが、近いうちにおれはたぶん無理をする

悪い悔いは残したくないからな。

本当に他愛もない雑記 米澤穂信,アニメ,商店街 など

なんとなく今日思い付いたこと・思い出したことをつらつらと

 

 

ここ最近は平日毎日、復職準備のために早起きして日中ずっと図書館で小説を読み耽る生活を続けている。

創作関連でまだまだやる事がある中、このルーチンはなかなかハードだ......。だいたい夕方頃に帰宅して自炊をしてから創作の作業を片付けるのだが、創作は、創るのにも摂取するのにもエネルギーが必要だ、と痛感させられる。

無論小説は好きで読んでいるし基本的に好きな作家以外読まないけど、やっぱりそれでもエネルギーは要る......ダラダラと仕事をしていた方が全然ラクだ。

 

まあ、とは言え、このルーチンのおかげで米澤穂信の著作をあらかた読み終えた。

<古典部>シリーズ以外の作品でひと際印象に残ったのは、色々あるけど一つ選ぶとしたらやはり『満願』だろうか。

米澤穂信作品の本質は、ずばり「人間の感情の機微」にある。

『満願』を読む前の自分、大雑把に言うと<古典部>シリーズ・<小市民>シリーズ・それから最新作の『本と鍵の季節』などの青春ミステリ系しか読んだことがなかった頃の自分、の主張は「例えば<古典部>シリーズのミステリ要素はそのひとつひとつのトリックの巧拙に関わらず"ガワ"の側面が強く、本体は青春群像劇であって、『クドリャフカの順番』編ばかりが評価され、ミステリ要素の薄い『あきましておめでとう』や『遠まわりする雛』が評価されないのは本質的でない」というものだったが、どうもこれは誤りを含んでいる、と今は思う。

予てから米澤穂信作品の本質は「人間の感情の機微」にある、と考えていたこと自体に変わりは無いが、おれはそれをかなり狭い範囲にしか適用していなかった。まあ要するに、ミステリ要素は"ガワ"などでは決してなかった。

結局のところ、米澤穂信が描く全ての事象は「人間の感情の機微」に起因するのだ。

本格ミステリでも、青春群像劇でも、日常の謎でも、全ての始まりは「人間同士が接触したときに生じる、この世の僅かな綻び」だ。その穴が、現実世界では大した拡がりを見せなかったり縫い合わされたりするが、フィクションの世界なら形はどうあれ何かしらの拡がりを見せる。その結果として凄惨な事件に発展したり、深い人間関係に発展したり、ただそれだけのことなのだ。

このことが分かれば、「本格ミステリ」とされており全体的に仄暗い雰囲気で構成されている『満願』は、青春ミステリに傾倒していた読者でも違和感無く読み進めることができる。

まあ、「魅力的なレギュラーキャラクターたちに依存しない短編集である」という意味での違いはあるが。

 

 

余談だが、なんとなしにラノベの棚を見ていたらアニメ『絶対少年』の横浜編のノベライズを発見した。想定を大きく上回る地場の強さだ。

そもそもこのアニメの存在を知る人はアニメファンの中でもごく少数だし、ノベライズされていることまで知っている人間となれば1000人にも満たないのではないだろうか。

あまりにも驚いたので勢いで借りてしまったが、著者が実際にアニメ本編で数話分の脚本を書いていることもあって、セリフはアニメの台本と恐らく一言一句違いが無い。だのに、セリフ以外の文章についてはアニメ本編にモノローグがほとんど無い(もしかしたら全く無い?)ため著者の解釈で補完されており、「それは監督や演出の意図と異なっているんじゃ・・・?」という部分も多分に見受けられた。

あまり完成度の高いノベライズとは言えないだろう。もっとも、『絶対少年』はやはりアニメでしか成立し得ない空気感が多くを占めている、冒険心と熱が込められた素晴らしいオリジナルアニメ作品である、ということでもあると思う。

とは言え、理絵子の家の最寄り駅が桜木町であることや希紗の家の最寄り駅が山手であることや、伊勢佐木モールという固有名詞が登場したことには少なからず驚いた。これらの情報は設定資料にはあったとしても、アニメ本編で具体的にキャラクターの口から発せられてはいないはずだ。まあ伊勢佐木モールなんかは背景美術から簡単に特定できるが、山手はそうもいかなかっただろう。思わぬ収穫だった。

 

 

今期のアニメの個人的OP賞、ED賞

 

OP

演出賞 ぼくたちは勉強ができない キャロル&チューズデイ MIX

作画賞 ぼくたちは勉強ができない

楽曲賞 異世界かるてっと さらざんまい

 

ED

演出賞 さらざんまい

作画賞 ひとりぼっちの○○生活

楽曲賞 さらざんまい

 

 

高校時代、休みの日に彼女に振られて、休み明けの朝に教室のドアを開けた瞬間の鮮烈な感覚をときどき思い出す たぶん一生忘れないだろうと思う

クラスの女子ほぼ全員がなにやら固まってひそひそ喋っていて、おれがドアを開けた瞬間一斉にこっちを向き、固まる まさかもうそんなに情報の流布が...!?

怖気づきながら、視線を無視して自分の席に座る 座るなり、何も事情を知らないであろう友達が喋りかけてくる 男子と女子では、こうも情報の拡散速度に違いがあるものなのか、と痛感......いやいや、まだあの女子たちがおれの話をしてるとは限らないし たまたまアンナンジュパッセ的に教室に入ってきたおれに視線が集まっただけかも知れないし そもそも女子トークでおれみたいな陰キャの話題が出るなんて無い無い 知らんけど

話しかけてきた友達に対し気丈に振る舞いつつ、きっちりと聞き耳を立ててみる

「....君さ、やっぱり....と別れたっぽいね」「ぽいね~」「~~~」「~~~~」

あ~~~~...............................ばっちり流布してる...............視線と言葉の槍が痛いです、オーバーキルです..............

 

柄にも無くラノベみたいな文章を書いてしまった

 

 

自宅近くの商店街で、何故かゲスの極み乙女の『戦ってしまうよ』のショボい耳コピがBGMとしてかかっていた。

イントロからして客がビックリするだろ。しかも割と編曲ありきの曲なのに。謎チョイス

 

 

家長むぎって久野美咲とめちゃくちゃ声似てるな

 

 

以上

ぜろ

 

去年の春m3からちょうど一年間にわたる創作活動から、遂に足を洗うときが来た。

 

請け負っている案件で未済のものは、正真正銘ゼロになった。

根を掘り下げればどこまで遡ればいいのかも分からない、泥臭くてダサくて、だけどわずかに輝きを放った作家人生の全てが終わる。

 

 

最初は、大学時代の大切な友人への恩返しのつもりで恐る恐る足を踏み入れたものだったのが(尤も、実際には大学4年の終わり頃から制作に携わっているのだが)、だんだんと「自分にしか表現できないものが創れて、それがもし、万人に受けてほしいなんて全く思わないが、もし多くの人の心に響いたとしたらそれはどんなに嬉しく、美しいことだろう」という想いが強くなっていった。

 

その結果、作詞家としての活動がメインではあったが、最終的にはアルバムのプロダクションデザイナーまで務めた。各イラストの細かなディレクションを行い、自身で一部の主要なデザインも務めた。

 

僕には、僕にしか表現できない、僕にしか伝えられない、僕にしか言葉に起こせない、僕にしか視覚的イメージに起こせない事象を形に出来る能力が眠っていた。正確には、自分には才能なんて無いと決めつけ、ずっと蓋をして目を覚まさないようにしていた。

その能力は、先天的に獲得したものと後天的に獲得したもののハイブリッドであるように思う。前者は、単純に地頭の良さと、後述するが言語の素養だ。後者は、生まれてからずっと身を置いてきた環境に依存する、知的好奇心の強さと、論理的思考力だ。

ずっと、創作物が大好きだった。音楽はもちろん、漫画もイラストもデザインもアニメも小説も映画もゲームも動画も大好きで、それらは、分けて捉えてしまう人が多いのだけど、本質的にはぜんぶ地続きにあって、自身の中でどんどん体系が結びついていくのが本当に面白かった。しかも、地続きなのはなにも創作の範疇に限った話ではない。この世のあらゆる物事は、深い深い根っこの部分で必ず繋がっている。創作物があるのならば、その向こう側には必ずそれを作った人間がいて、その人の半生は、どんなに些細なことでも必ず作品に反映されている。そこに到達してから、作品を通じて、創作のことから、果ては僕らが住むこの世界についてまで、「考える」ということが楽しくて、好きで仕方がなくて、僕は半生の半分をそれに捧げた。もう半分は友達に。

創作のフィールドにきちんと足を踏み入れてから初めて分かったのだが、どうやらここまでの知識量、知識の幅、そして思考量があること自体が凄い能力であるらしい。実際、これは誇らしさを感じると同時に残念なことでもあったのだが、知識量と知識の幅に限っても、同人音楽界隈周辺で僕に迫る人はまず居なかった。

「自分には才能なんて無いと決めつけ」てしまっていたのも、天高く積み上がった知識量と思考量のてっぺんに立ち、あまりにも俯瞰的過ぎたためなのかも知れない。

 

その上で、「僕にしか表現できない」こととは一体なんだったのか、と言うと、要するに「創作物が好きで仕方が無いのにここまで色んなものをこじらせてしまった者が、創作物が好きで仕方が無いのに僕と同じように色んなものをこじらせてしまった者へ向ける、泥臭くもまだ青き理性に強く立つ人間賛歌」だった。

これには、僕が僕の半生で僕なりにずっと考え続け、実践し続けてきた「優しさとは何か?」に対する解答も含まれている。

実際に僕は、(一部の楽曲を除き)これに沿ってずっと作詞を行ってきた。

そして、他でもない僕自身がそれらの歌詞に救われてきたのは言うまでもない。

 

そもそも大前提として、幾度も不意に接近する淡い死の匂いを感じながらも僕はまだ生きている。それどころか、死の匂いを感じる度に思考がどんどん研ぎ澄まされていくようでさえあった。

エヴァの有名な台詞の通りだ。まだ生きているのだから、しっかり生きて、それから死ぬべきだ。

 

それからは、本当に色んなものに触れた。

言葉の力、作り手の気持ち、受け取り手の気持ち、人のかたち、世界のかたち、魂の構造。

細かくは割愛する。

 

前述の通り、作詞家として、そしてプロダクションデザイナーとして僕は依頼を受けて活動してきた。

後者については、だいたい前述の通りのことを実践に起こした結果で、僕には漫画やイラストや作画に関しての知識量と思考量で誰にも負けていない自負があったし、それらと音楽に本質的な垣根は一切無い、という考えを応用したまでで、それ以上でもそれ以下でも無い。

ただ、全く予期していなかったし、本当に納得の行くアートワークを創り上げることができたので大変嬉しく思っている。心の底から、漫画やイラストや作画が好きで本当に良かった、と思う。曲がりなりにも商業で活躍されているイラストレーターの方と対等に作品を創り上げていくことができたのは、本当に得難い経験であった。

前者については、僕が音楽を愛して止まないのは言うまでもないが、それと同時に僕には言語の素養があった。小学生の頃からずっと国語の成績はとても良くて、小説や歌詞から増田まで、とにかく言葉が紡がれているものだったらそれが自然発生的であればあるほど積極的に摂取してきた。高校生になった辺りで、自身の中で言語体系がきちんと構築されてからは、それを日本語以外の言語に応用することも訳無かった。要するに、英語の成績もとても良かったのだ。

言語感覚、特に日本語表現にはかなりの自信があった。作詞家として活動することになる直前の一年間は、ちょうど自身の日本語表現に対して他者、それもプロ中のプロから明確に非常に高い評価を受けて、確かな自信がついたタイミングでもあった。

だから、創作に発展させるつもりはまるで無かったのだが、なんとなしにブログを開設して日記のようなものをつけるのが常態化していた。

 

そんなある日、作曲家として活躍している大学の友達から、作詞の依頼が飛んで来た。
あまり他人に見られている意識は無かったが、どうも僕のブログに感銘を受けたらしい。

色々考えた末、僕はそれを承諾した。
全ての始まりというのは、往々にして案外瑣末で唐突なものである。

 

全ての終わりというのは、往々にしてやけに感動的で奇跡的なものらしい。

最後に済んだ依頼は、その友達からの依頼だった。色々あって進行状況が滞りに滞り、企画段階にあった熱も、夢みたいだけど届かないことはないかも知れないボーカル依頼の夢も、到底失われて、叶わなくなってしまったかも知れなくて、でも絶対に諦める訳にはいかなくて、ずっと心を、熱を、ふらふらになりながらも保ち続けた結果、夢のようなボーカル依頼が本当に通ってしまった。

ちょうど一年前、その友達からの依頼を受けて作詞をしたときも、僕らが知り合ってからずっと僕らの憧れだったボーカルさんに依頼が通り、二人で諸手を挙げて喜んだ。

まるで、その時の再現のようじゃないか。僕は、今回のボーカル依頼が通った瞬間、涙が止まらなくなってしまった。

こんな奇跡ってあるか。

 

かくして、僕の作家人生という物語の暗幕は、夜の帳のように、音も無く下りていく。

 

 

尤も、まだやるべきことは残っているんだけど。

創作活動に、本当の終わりなんて無いのかも知れないんだよな。

まずボーカルのデータが届いたらその確認と編曲の案出しをすることになるし、某アルバムの制作中の楽曲群に対して助言が必要そうならそれをすることだって厭わない。 

それが済んでも、まだ「作品の完成を見届ける」という役割が僕にはあるし、なんなら作詞もアートワークも含めて僕が創ってきた全てのものたちは、完成して、イベントでの頒布が終わってもこの世に、誰かの心に残り続けるのだと思うと、本当に、創作活動に本当の終わりなんて無いのかも知れない。

 

ただまあ、いち段落したのは紛うことなき事実だ。本当に、本当にこの数か月、あまりにも理不尽な目にも遭ったし、本当に辛いことも沢山あったけど、本当に頑張った。思えばあの理不尽からまだ2か月程度しか経っていないんだよな。本当によく張り詰めて頑張ったと思う。僕はこの数か月の創作物に、本当にありったけの希望を込めた。僕のこの熱が、絶対に報われますように、と。

春m3と某案件、本当に楽しみにしていてください。

とりあえず僕は明日から友達と北海道に旅行に行ってきます。

 

 

0612日記 人として

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(6/12 22時頃  野毛山公園前にて)

 

 

自分の気持ちが分からない。

 

会社からの帰路、大して仲が良い訳でもないけど同じ寮に住んでいる同僚たちと、夕食を買い込みにスーパーに立ち寄る。

べつにこれ自体はなんでもないことだ。いくら俺が人間的に興味が無い会社の同僚との無用な遭遇をなるたけ避けるようにしていたって、タイミング次第ではこういうことも起こる。

 

本当になんでもない、他愛も無い会話が展開される。今日しんどかったね~とか、明日の席替えの話とか、ごはん派かパスタ派かとか、ここ2か月で得た良い惣菜の知見に関する話だとか、割引きシールの話とか。

 

あれ、意外と人生ってこんなもんでいいのかな。

そうだ、あと、やっとの思いで手に入れた、プレミアがついてる創作同人誌が近々届くんだった。それが楽しみなんだっだ。俺の人生における幸福の総量を考えたら、こんなもんで十分なんじゃないか。

 

 

今、無理をする必要なんか無いんじゃないのか。

 そんなことが一瞬でも頭をよぎってしまった自分に嫌気が差す。

 

 

 というか無理をする/しない以前に、自分の気持ちすらよく分からない。他の人間の気持ちなんてもっと分からないのに。

睡眠障害だって依然として治る気配は無い。

そういう精神的弱さに、何か変化がもたらされるかも、という淡い期待、というか打算もあったんじゃなかったっけ。

それすらも、精神が弱過ぎてどうでもよくなってくる。

むしろ、ならばいっそ、目下その打算だけを行動原理とすべきなのか、とすら思えてくる。

 

 

俺はずっと、「考えることを辞めるぐらいだったら死んでた方がマシ」という理念を掲げてきたが、実際には「今後もずっと考えることを辞めない」ことはたぶんとても難しい。

今の研修を受けてる限り、配属後の仕事にやりがいなんて感じなさそうだ。まあ分かってたけど。

創作物に対する熱は未だ冷めないが、これは精神的・肉体的に一定以上元気な人々しか享受できないものなのではないか、と最近思い始めてきた。とは言え娯楽でもあるのだから、その「一定」のハードルはかなり低いはずだが、今の俺はそれさえけっこう怪しい。

そう遠くないうちに、精神も、肉体も擦り減って消え失せてしまうんじゃないか。しかもそれはだんだんと摩耗されていくものだから、自分が消え失せたことに気が付くことすらないだろう。それがただただ怖い。

 

 

妹から『最近どう?』とラインが来ている。

俺にとって妹は、家族のうち、唯一仲が良かった人間だ。

 

兄として、そして人として、返す言葉が見つからない。